'25 Spring & SUmmer

LABO _ 霞

記憶の粒度

二月の末頃に出た旅先で、朝の霞に包まれた。 山々の稜線は輪郭を失い、粒子にほどけるように大気と混ざり合っていく。空気は澄んでいるのに景色は曖昧で、自分もその場に溶けてしまいそうだった。霞という現象は空気に混ざる微細な粒子に光が散乱することで生まれるという。色が漂うのではなく、繊細な光の余韻だけが揺れている。そのことが、私にはとても美しく感じられた。

カルセドニーを初めて見たときも、同じ感覚が胸を満たした。実際には青い色素はなく、石の内部にある微細な粒子に光が散乱して、青い光が漂うだけらしい。つまり霞と同じ現象が、石の内部でも起きているのだ。その姿はまるで「大気を固めたような」美しさだった。

曖昧で揺らぎのあるもの。おそらくそれは一般的な宝石としては価値がないとされるような存在だ。確かにはっきりしたものは強くて美しいけれど、私たちはいつもその曖昧さに惹かれてしまう。それは、どんどんと解像度が上がり鮮明になるデジタル写真と、光の粒子が焼き付いた揺らぎのあるフィルム写真の質感の違いにも似ている。どちらが良い悪いということではない。ただただ、その自然現象として起きる偶発的な揺らぎに、私たちは一度きりの時間を生きていることの質量を感じるからなのではないだろうか。現代はとてもクリアだからこそ、曖昧で揺らぎのあるものへの恋しさがあるのだ。

考えてみれば、1000年前の『枕草子』に綴られたあけぼのの美しさも、100年前の菱田春草や横山大観が急激な西洋化に抗うべく生み出した朦朧体の絵画も、「霞」という現象を通して美しさを描き出してきた。私たちはずっとその粒度ある曖昧な美しさを愛してきた民族だ。今季の素材を通して、私たちは1000年前の人と同じ景色を、同じ美しさを、また眺めているのかもしれない。

'25 Spring & Summer

LABO _ 霞

LOOKBOOK

東洋的感受性のもとに素材の色彩や質感を見つめ、宝石の在りようを再解釈する取組《LABO》を続けています。今季は霞がかったような質感のカルセドニーという素材の、中でも灰白〜灰青の階調を宿す原石から一つずつお仕立てしています。このぼんやりとした淡い質感は、石内部の粒子により光が散乱し生まれるもの。これらは原石の個性はもちろん、自然光や身につけるお洋服の色など状況によって表情が移ろいます。空に同じ表情がないように、これらにも同じ表情はふたつとありません。日々に静かに溶け込み、身につける人から余韻ある美しさを引き出してくれます。